HOU HSIAO HSIEN

【初出: 香港電影通信 第213号 2008年6月23日】
 

パリに浮かぶ風船は、赤ではなかった。  

   ー侯孝賢「ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン」ー

舩橋淳

人通りの絶えないパリのメトロの入り口で、赤い風船、降りておいで、と話しかける少年のミディアム・ワイドショットが視界を捉える。大まかにパリの市街を含めたスーパーワイドではなく、ある程度視界を絞り込み、しかし少年のクローズアップではなく、その背後に駐輪された自転車や、行き交う大人の後ろ姿を捉える中程度サイズの画面は、間違いなくあの台湾の巨匠のものであろう、と刺激に満ちた確信を我々に与えてくれる。それが台北のナイトクラブであろうと、神保町の古本屋であろうと、もしくは徐行する田舎の電車の中であろうと、人物とそれを取り巻く環境を、一つのショットで捉えきり、中心化と非中心化の同時共存を最もフィルム的な豊かさにおいて達成する侯孝賢の視線は、ファーストショットからすでに感動的だ。
食卓を手前に捉え、奥の台所に人物が立つという奥行きのある構図、暗い室内に斜光が差す撮影時間の選択、トンネルを抜ける列車の先頭車両からの見た目ショット、ガラスの反射を活かし室内と屋外両方を一つの画面に取り込んでしまう視線など、侯孝賢の映像記号が随所に見られる。室内の粗雑さから生活感がたっぷり伝わる演出も、彼らしいと言えるかも知れない。同じくビノシュが男子の母親として登場するミヒャエル・ハネケの「隠された記憶」と比較すると、あまりにも人なつっこいビノシュの変貌ぶりに驚いてしまう。
ヘリウムガスが密閉されたビニール風船の色彩もまた、侯孝賢らしい豊穣さに満ちている。鮮やかだが人工的な深紅ではなく、くすんだパリの日差しを乱反射し、若干、緑と紺が混じったような複雑な赤。この色彩記号が、映画のここそこに姿を現し、画面から画面へと移動し続けるのだが、パリの市街を歩く少年をただ追跡するのではなく、その影が2重3重にスクリーンを横断し、少年とベイビーシッターの中国人留学生、母のビノシュそれぞれの内省的時間を照射し、一つの流動する映画の大気を生み出している。そう、赤い風船は決して赤くなく、侯孝賢的な豊穣さを表象しているのだ。
遷ろいゆく光の変化をキャメラに収めることに関しては世界一といってもいい台湾の巨匠は、豊かな日常の時間を積み重ねるだけで映画が成立してしまう、というシンプルな身振りを体現してきた。「恋恋風塵(1987年)」では山間の斜面にある小さな家々、「風櫃の少年(1983年)」では水田と大樹が印象深い農村、出来についての意見が分かれる前作「百年恋歌」では、灰色の現代都市台北のハイウェイ、若者が集うビリヤードホールなど、作品ごとに一つの場所にキャメラを据え、光の遷ろう時間的持続すなわち”時光”を切り取って来た。昨年のカンヌに出品された今回の新作で、彼がキャメラを据えたのは、二つの部屋が上下に隣接するパリのアパルトマン。興味深いのは、このよく似た間取りの二つの空間が、一つの楽器によって繋がれていることだろう。他人同士の二世帯が、移動するのは一苦労であるピアノによって橋渡され、二つのプライベートな空間に穴が穿たれる。少年はピアノが階下の借家人マルク(イポリット・ジラルド)の部屋にある時は、そこでレッスンを行い、同時にマルクとガールフレンドは料理をしたいからと、上の階のキッチンを利用する。一つの鈍重な楽器のため、人物の交通が頻繁になり、画面が活気づくという仕掛けである。もちろんそれを聞いて「冬冬の夏休み(1984年)」や「童年往事−時の流れ(1985年)」のご近所関係を思い出してしまうのだが、隣組的共同体の軋轢が浮上してくることがここで重要なのではなく、注目すべきは、一つの部屋を描くことで、他方の部屋で同時進行している事態を見る者に想起させてしまう喜劇的演出である。肝心な「現場」を見せることなく、下げられた皿の料理の減り具合だけで、隣の部屋での大ゲンカの様子が推し量れてしまうという、トリュフォーが熱狂したあのルビッチ・マジック。または山中貞雄の長屋ものを思い出してもいいだろう。そんなコメディ的起源を持つ隣接した二つの空間装置が、侯孝賢の”時光”的視座と、奇跡の融合を遂げている。これにはもう興奮するしかない。
そして、二つの空間の流通装置であったピアノが下の部屋から上の部屋へと移動されるとき、その間に立つ人間たちの関係は破綻してゆく。そのさまを侯孝賢とリー・ピンビンは、1ショットで収めてしまうのには驚愕する:
ビノシュの留守中、上階の部屋で少年がプレイステーション(「憂鬱な楽園(1996年)」以来の侯孝賢的遊具) に興じている。ベイビーシッターのソン(ソン・ファン)が盲目の調律師を連れ戻り、アップライト・ピアノの前面蓋を外して調律を始める。そのときオフ・スクリーンで「スザンヌは?」と尋ねる男の声が聞こえる。いない、とソンが答えるとキャメラが男の声の方向へパン、階下へ去ってゆくマルクの後ろ姿を一瞬捉える。程なく、ベルギーに住んでいるスザンヌ(ビノシュ)の娘、少年の異父姉弟から電話が入り、少年は電話の外で響く音は、ピアノを調律しているためで、ピアノが階下の部屋から上に移されてきた、母親は上でレッスン出来るから、って言ってるけど、本当は・・・(下階のマルクと顔を合わせたくないんだろう)、と子供なりの鋭い洞察を披露する。そのとき、外からスザンヌとマルクが侃々諤々と口論を戦わせながら帰宅。借家人との友情は破綻、彼をドアの外にたたき出すと、すぐさま電話口に出る。まだ息も収まらぬなか、娘は祖父の面倒を見るためにパリへの帰省はキャンセルするという。友情も家族も自分の思う通りにはならず、混迷をきわめる中、スザンヌは一言「大人って複雑ね」と漏らす。その漠とした空気を、盲目の調律士が奏でるピアノの物質的な響きが撃ち続ける。これら一連が見事に1ショットで収められているのだ。そしてリー・ピンビンの技術的達成よりもさらに我々の感性を震わせるのは、調律されるピアノの単調な原音が、二つの空間の断絶を告げる音声記号=鐘として機能している点である。
人物たちが口にする会話により状況と行動目的が規定され、物語が推し進められるのではなく、彼らのテンションや気分が、濃やかにシーン間で継続され、その蓄積が映画のエモーションとして収束してゆく。その手つきは、ベルトルッチのように感覚的でありながら、フェリーニ的な無駄撃ちは決してない。侯孝賢曰く「感情の袋小路」に嵌り込んだビノシュの心理が、多面体の彫刻のように浮き彫りにされてゆく様は、ロッセリーニ的とも言えるだろう。借家人マルクが、ビノシュと電話で話し、台所を借りるための交渉をするくだりも、笑えるやりとりの中に、互いにストレスを感じている関係構造が透けて見えるし、移動する車内でモントリオールでライター・イン・レジデンスとして小説を執筆している夫と話し、「どうせ小説も書いてないんでしょ、ずっとパリにいないんだから」と、毒づくときも、全く家庭を顧みない夫との関係のこじれにストレスを堆積させてゆく妻=母=女が活写されている。つまり「レッド・バルーン」の感動とは、ラモリスのように赤色の浮遊物体と少年が映像的な信頼関係を醸成してゆくさまではなく、身に降り掛かる幾重ものトラブルを掻き分け、エネルギッシュに生き抜く一人の女性の憂鬱が、映画的持続として束ねられてゆく、その過程の豊穣さに瞳を晒す体験なのではないだろうか。

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